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『奄美の暮らしと儀礼』にでてくるお菓子

前回、ヒキャゲェのことが書かれていますよとご紹介した、『奄美の暮らしと儀礼』。
田畑先生のご著作ですから、当然っちゃ当然ですが大変おもしろいです。

ぱらぱらと眺めただけですが、お菓子関係でも、カタツィラムチ(片面餅)とか
麦菓子とか、フスムチ(ヘソ餅)とか、これまであまり聞いた覚えがないかも?な
ものが出てきました。

カタツィラムチは、「餅米の粉と黒砂糖、そして少量の薩摩芋を入れ練ったものと、
餅米の粉だけを練ったものを合わせ、それを餅ガシァ(ゲットウの葉)に包んで
蒸した餅」、

麦菓子は、「麦粉、豆粉に薩摩芋を入れて練って長く伸ばし、切って作る」
砂糖が入りませんから、薩摩芋の甘みで食べるんでしょうね。

フスムチはお盆の送りの時にあげるもので、椿の葉の上に置いた餅のこと。
餅米を水に浸して搗き砕きフルイにかけて捏ねて作るとありますので、
火を通していない、いわゆる生シトギ、でいいのかな?(なんとなくシトギは
粳米のイメージ強かったんですが、粳じゃなきゃというものでもないらしい)

うーむ、今でも作っているのかしら? ググってもそれらしきものは
見つかりませんでしたが、検索あんまり得意じゃないからなー。
大和村の方、ごらんになってましたら教えてくださいませ!

関係ありませんが、麦菓子で検索してたら全国各地にいろいろあって面白かった。
喜界島の麦菓子は型菓子でした。これ、奄美空港で売ってる豆菓子と
材料違いみたいです。ちなみにこの豆菓子はソラマメ粉を使っていて
全国的に見ても珍しいのではないかと思います。・・・って、前にも書いたかな。
これ、美味しいんですよー。麦菓子も食べてみたいなー。

奄美群島、大島とカケロマしか行ったことがないので、ほかの島にも
行ってみたいですね。

えーと、果てしなく脱線しましたが、本日はこれにて。
biza * お菓子 * 16:47 * comments(0) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

ナリムチとヒキャゲ その2

続きです。

 2、ナリムチがなくてもヒキャゲがあるところも。

大島の大和村名音の記録では、ナリムチはないけど「ヒキャゲェ」は作った
ようです。(田畑千秋『奄美の暮らしと儀礼』第一書房 1992 39〜40頁)

ヒキャゲは引き上げの意味、正月行事もこれでおしまい、という話は他でも
聞いていましたが(だから夏正月の終わるドンガやトモチにもヒキャゲを
食べる風習のあるところがあるとか)、ここでもその説をとっています。

ちなみにこの本では、トモチの日(ドンガから8日目)をヒキャゲェと呼ぶように
書かれていた(と思う)のですが、こちらでは特に食べ物の話は出てこない
ようでした。(74頁)ひょっとして読み間違いかな?(汗)
今度再確認してみたいと思いますが、 違ってたら教えてくださーい。

さて、本書にあるヒキャゲの説明です。

薩摩芋と里芋(ほんのわずか)ともち米の粉と粟(あるいは粟黍)で作るもので
洗った芋を鍋に入れ、その上にサネンの葉で包んだ米などを乗せて、
火にかけ、その後こねあわせて作り、茶碗に入れたものを近所に配ったそうです。

完成の印にサネンの葉を門にさしたというのが、面白いです。出遅れたら
近所中にわかっちゃうわけですね。あーでも、配りに行くわけだから、どっちに
してもわかるのね。

与論島のウンニーマイの事例もありましたし、ナリムチとヒキャゲは
必ずしもセットのものではなかったのかもしれませんね。

1月18日ヒキャゲを作る、というのが昔からあって、あとから入ってきた
薩摩のナリムチの風習が、地域によってはくっついた、ということは
ないんでしょうかねー。ナリムチは無いけどヒキャゲは作る、の事例が
たくさん見つかったら、そんなことも考えられるかもですね。

でもナリムチはあるけどヒキャゲはナイ(少なくとも書かれていない)、という
逆事例の資料もそこそこあるので、なんともいえないかなー。

奄美群島全部で調べたら面白そうですよね。
誰かやってくれませんかねー。( ← 人任せ) 

過去から現在までの市町村誌とか、あと、地域の広報誌の古いのとか
ベタベタに調べてみたら面白そうかも? 市町村誌は、編纂者の趣味が
色濃く反映されるので、食べ物に興味のない人の編纂だと、ホントに
食文化関係がバッサリ無かったりするものもあるんですけどね。

ぐだぐだになってきましたので(いつもだけど)、本日はこれにて!
biza * お菓子 * 17:00 * comments(0) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

ナリムチとヒキャゲ

前回の奄美行きはお勉強モードでなかったので、図書館でホントに
テキトーに目に付いた本をめくってきたのですが、そういうのも
面白いですね。目的があれば国会図書館で見られる本もありますけど
地域資料は国会もそんなに強くないし、なにより閉架ですから。

地域の資料は地元の図書館が一番であります。

さて、そんな中からご紹介。

ナリムチ、以前ちょこっと調べたことがありました。
→ こんなのとか 
→ ここからの一連とか
→ こんなのとか

簡単にいうと以下の感じでした。

1月14日、リュウキュウエノキの枝に小さな餅をつけて飾る、小正月の
予祝行事。本土の餅花とかと同じで、『南島雑話』の記録によれば、
薩摩の風習が伝わったもの。現在では主に大島北部と徳之島の一部に
見られるらしい。。。18日か20日にナリムチを下げて、イモと搗き混ぜて
「ヒキャゲ」を作る。

そのナリムチとヒキャゲについての追加情報です。

1、喜界島にもありました!

若餅という名前で同様の風習があったそうです。
「正月十四日は若餅と称し、三、四分位に角切りたる餅を榎の枝に
挿し、これを祖先の霊前、及家の本柱に懸くる習慣なりしも今はなし。」

これは昭和6年刊行の『喜界島史』の内容になります(坂井友直編著
『奄美郷土史選集』1巻 国書刊行会 平成4年 291頁)。

ナリムチが北大島と徳之島にしか現存しないのは、代官所のあったところだから?
というような話もあって、喜界島と沖永良部島にも代官所はあったよね
なんて話題も出たような?

代官所が置かれたのが、大島(1610年)、徳之島(1616年)に対して
沖永良部島(1690年、与論島も管轄)、喜界島(1693年)でしたから
古くからあったほうが影響力が大きかったのかな?なんて思ったり
したのですが、喜界島でも、一応あったんですねぇ。

早く廃れたということは、きっと定着の度合いが低かったということで、
そこが薩摩の影響力の差なのかもしれませんねー?

こうなると沖永良部島が気になります。何か資料ないかなー。
ご存知の方、是非ご教示くださいませ。

えーと、長くなりましたので、続きまっす。
biza * お菓子 * 10:15 * comments(0) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

奄美郷土研究会

 今日は嘉美行さんの研究会ですよねー。

行きたかったなー。奄美がお隣だったらよかったのに。
biza * そのほか * 10:50 * comments(2) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

追っかけ情報ー

こんにちはー。

名越左源太追っかけ情報の続きですー。

旅の文化研究所発行の季刊誌『まほら』というのがあります。
その62号に左源太さんが載っています。

「冒険者たち」というコーナーがあって、それは、近・現代に
当時としては先駆的な旅を試みた人物をとりあげて紹介する
という趣旨なんだそうですが、そこに掲載なんですねぇ。

遠島は「試みた」わけじゃないけど、航海の無事だって保障されてた
わけじゃないし、左源太さんも悪天候で流されて吹き戻されて
結構大変な目にあいつつ、大島に行ったわけですから、
鹿児島から奄美は過酷な「旅」ではあったかも。

でも、そういう具体的な「移動」ではなくて、遠島生活そのものを
「旅」と捉えたのがコラムの趣旨なのかな?とも思います。
タイトル通り人物に焦点をあてた5頁です。

赦免の通知を受け取ったのだから「すぐに帰ってもよかったのだろうが」
とか南島雑話』が「すべて同一人物の著作」とか、ちょいと違うぞ、という
ところもありますが、フリーライターの藍野裕之氏の解釈の入った
左源太さん紹介も魅力ありますので、機会がありましたら是非ご一読を。

ちなみに左源太さんがすぐ帰れなかったのは季節風の関係で、4月からずっと
船で暮らして、風の吹く日を今か今かと待っている左源太さんの気持ちは、
「遠島録」に記されています。

また、今は『南島雑話』=名越左源太 になっちゃってますけれど、
雑話の多くの部分は、薩摩のお役人の伊藤助左衛門さんが記した『南島雑録』
の一部分であることが、河津理恵氏の論文で明らかになっています。

残念ながら河津論文はあまりメジャーじゃないのでこの誤解は仕方が
ないのかなぁ。と思いつつ、ちょっと残念。

でも、『南島雑話』は長らく著者不明とされていて、昭和9年に永井亀彦先生が
左源太さんのものであることを発表した、という風に理解してましたが、
先日書いたとおり、坂口徳太郎編著『奄美大島史』三州堂書店 大正10年では
『南島雑話』は「文政十一年大島見聞役等の取調報告書」であるとしている
わけですから、全くの不明だったわけではないんですよね。

つまりつまり、『南島雑話』という史料は

1、 かつては伊藤さんとかの報告書だと思われていた、
2、 昭和9年以降、左源太さんのものだということになった、
3、 でも実際は、両方がごちゃごちゃになっている(しかも両方とも
記録の一部分)ことがわかった ← これが河津論文

ということだと思うんですよ。 2が結構インパクトあったので、1の
部分が全部すっとんじゃったんですね。

東洋文庫が名越左源太著になっているのは、その時代のことだから
仕方ないのですが、昨年出版された南方新社さんの『名越左源太関係資料』に
河津論文情報が載っていないというのは、個人的にはとっても不満なわけですね。

だって凄く重要な基本情報ですよ?

きっとパート2を出してくれるに違いない、そうに違いない、と思って待ってまーす!

biza * 左源太さん * 12:07 * comments(0) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

白糖つくり

 「たばこと塩の博物館で、白砂糖製造の道具「瓦漏」が展示されてますよ」

先日、職場で情報アナウンスがありました(各自のみつけたお菓子情報を
連絡しあっているのです)。

瓦漏かー。前に論文でちらっと見たやつです。瓦溜・糖漏などともいいます。
そういえば喜界島からも出土してましたよね? そのうち調べようと思って、
そのままきれいさっぱり忘れておりました。がーん。

ググって確認したところ「糖漏」の名称で、喜界島の歴史民俗展示室に
展示されていました。 この写真を見たんだっけなぁ。もうすっかり
記憶がかすんでおります。いかんなぁ。

瓦漏は底に穴の開いた円錐形の土器で、穴をワラでふさぎ、中に
煮詰めた砂糖黍の絞り汁を入れて、表面を土で覆っておくと、
糖蜜分が下の穴から抜けてゆき、白砂糖の結晶が得られるのだそうです。

これは「覆土法」と呼ばれる白糖製造の手法で、世界各地で
おこなわれていたらしく、瓦漏も各国で発掘されいます。

幕末の大島の白糖工場では遠心分離機を使った近代製法でしたけど、
糖漏が発掘されたということは、喜界島では古くから白糖つくりが
行われていたことの証拠になるわけですよね。この製法は、どこから
持ち込まれたんですかねー。やっぱり薩摩かな???
喜界島以外の奄美群島で糖漏が出土した例はあるのかな?

えーと、勉強してから出直しまーす。
biza * お菓子 * 02:27 * comments(0) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

嘉美行さん!?

 mizumaさんのブログに奄美郷土研究会のご案内が。

「藩政末期〜明治前期の医師『加勇田藤良物語』」ですと!?

これ、嘉美行さんですよね? 左源太さんが鹿児島に連れて行った
藤由氣さんのご養子。

うわー。きゃー。聞きたいけど6月6日、無理。

mizumaさん、資料くださいー。(ここで叫んでどうする)
biza * 左源太さん * 19:02 * comments(0) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

左源太さんおっかけ

こんにちはー。有難いことに、本の感想など、ぼちぼちお寄せいただいています。

あなたはホントーに左源太さんが好きなのねぇ、と笑われて、
ちょっと嬉しかったりして。 はーい、大好きですー。

さて、一部で左源太ミーハー、追っかけと呼ばれているワタクシでございますが、
おっかけのやること、といいますと、時々「南島雑話」とか「名越左源太」
とかの単語をググるわけです。

もう何度となく検索かけてますので、たいていは見覚えがあるわけですが
たまに、あれ?こんなのあったっけ?という情報を見つけることがあります。

そんなわけで、本日はしばらく前にみつけた左源太さん掲載情報ー!

佐伯修 『偽史と奇書の日本史』 現代書館  2007  に『南島雑話』あり。
2007年の本なのに、最近まで気がつきませんでした。

全国一千万のファンがいる左源太さんの本をマイナー扱いかいな、
とつぶやきつつ(おいおい)、内容はといいますと、これは再現日本史という
週刊誌の連載をまとめたものですので、全100話、ひとつひとつは
とってもダイジェスト。『南島雑話』もさらりとごく普通の紹介です。

本の魅力を短く表現するのは難しいですよねー。(長くてもやっぱり難しいけど)
著者が、この本はブックガイドとして見て欲しい、実際の本を読んでもらいたい、
というようなことを書かれていらっしゃるのには、とっても共感します。

ところで週刊誌連載だったせいか、タイトルが

薩摩藩「お由羅騒動」流刑者が記録! 奄美大島の見聞録『南島雑話』

ときました。あおりまくりです。別の本みたいですが、ウソではないし。

でもまぁ、わたしが『遠島録』を紹介すると

ステキな左源太さんの幕末奄美遠島生活 

なわけですから、似たようなモンですね?(こらこら)
biza * 左源太さん * 00:48 * comments(0) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

奄美・小宿集落誌

 タイトルは奄美でいただいた本の題名です(ありがとうございます!)。

ともかくこの本が凄いのは、『南島雑話』がカラーでどどんと60頁も載っている
ことなのです! 一頁に見開きで2コマの写真ですから、凄い量ですよー。
これは買わなきゃでしょう。市内の楠田書店でも売ってましたので、お早めに。
ちなみに2000円です。これはお徳だと思います。大島古図の写真が載って
たりもするんですよ。

あと左源太家はもちろん、藤由氣家、亀蘇應家、佐和雄家の系図も掲載されています。

藤進さん(藤由氣さんのお兄さん)のご子孫は現在久保家・藤野家で、藤野家の方が
左源太さん居住地跡の所有者でいらっしゃるそうです。

で、昭和28年には、左源太さんの直系のご子孫の方や、学者のみなさんが、
「何度となく久保家を訪れ、名越左源太が残した遺品や研究資料の収集に
あたったこともわかりました」とあります。

しかし収集された遺品や資料がどうなっちゃったのかが書かれていません!
どんなものがあったのかも書かれていません。これを教えて下されませー!!!
藤進さんの家系に伝わっていたモノということは、現在博物館にある資料では
ないですよね。遺品とか書いてありますから、きっと紙資料だけじゃなくて
モノ資料もあったんですよねー。左源太さんに貰った茶家とか?きゃー、気になります!

この様子だと、ひょっとして「学者のみなさん」とかが持っていったキリ、行方不明に
なっちゃったりしてるのかしら、などと思ったりして。だとしたら涙です。

だいたい左源太さんの日記やらだって散逸してしまったものが結構たくさんあって
それって「研究者」の人とかが持っていったキリだったりもあるようです。ヒドイぞー。
無関係な人が持って行ったら、その人がいなくなった時にまとめて捨てられて
しまうかもしれないじゃないですか(ペラの文書のきれっぱしなんて、知らない人
から見たらただのゴミですもん)。

やっぱり史料はあるべきところにあってほしいなぁと思います。もしも個人で
持ちきれなければ、せめて地元の図書館史料館博物館に預けられたりすると
いいのですが、 最近では、史料の寄託は簡単には引き受けてくれないようです。
保管スペースの問題がありますものね。「価値」の判断は難しいです。

なので、左源太さん関係史料が博物館に今あることは、とても有難いことだと
思っています。修復もされましたし、大切に保管されて、散逸が避けられると
いうのは大事なことですよねー。


ところで表紙は埋めたて前の小宿の入り江の写真です。

この海岸を左源太さんが歩いたのかなぁ。うわあああ。なんとなく、感動。
埋め立てる前に、行ってみたかったなぁ。(埋め立てのいきさつ、本に少し
書いてあります。反対も多かったようです)

biza * 南島雑話 * 11:00 * comments(2) * trackbacks(0) * ログピに投稿する

白糖工場ふたたび

今日から何回か、奄美で拾ってきたお話をしたいと思います。

 以前、奄美の白糖工場のお話をしたことがありましたが、今回は、
前に行きそこなった龍郷町の白糖工場跡地を見学に行ってきました。

町役場の資料室に、耐熱煉瓦なども保管されていて、お願いすると見せて
いただけます(いただきました)。COWEN の煉瓦、前に瀬戸内で見たのより
ちょっと大ぶりに見えましたが・・・、どうなのかな?

跡地は瀬留という場所で、教会のすぐ近くです。白糖工場跡地の看板はあるものの
解説もなく、それらしき煉瓦や白糖石らしきものも見えず、うーむ面影ゼロ。

近所の方のお話では、この辺と聞いているけれど、何もないよ、とのこと。でも
家を建てるときなどに掘り返すと、煉瓦くらいは出るともおっしゃってました。

町は区画整備などもされたのか、全体にかなり整然とした新しげな雰囲気で、
昔のものは残ってないのかも?という印象ではありましたが、ガイドをお願いした
mizumaさんが、教会の二つくらい隣の空き地に、白糖石を加工したらしき石が
転がっているのを一つだけ発見してくれました。

大きさは手ばかりですが40×40×100cm弱くらい、以前測ったものとほぼ
同じくらいの感じ。四角柱の長辺の角を落として、頭の部分を丸くくりぬいてあり、
宇検のお家にあった手水鉢のように加工されていました。石の質が
同じかどうかはちょっとよくわかりませんでしたが・・・。

実はこの龍郷の工場跡地は、発掘の計画があるようですので、実現して、なにか
発見があると面白いですよね! 期待して待ちましょうー。

あるいは、かつての土地の有力者の屋敷など残っているならば、そこに
白糖石が使われてたりって、ないだろうか、とmizumaさんがおっしゃって
ましたが、がんばって遠くまで運ばれてたり、なんてことも、なくはないのかも?


あと、坂口徳太郎編著『奄美大島史』三州堂書店 大正10年 の口絵に
「龍郷町瀬花留部の白糖製造工場の遺跡」の写真が載っていました。

キャプションとして「右なるは村役場なり。小屋の左方に見ゆる煉瓦に注意すべし」

でもなにせ古い本で印刷も悪く、村役場らしき建物は分かるのですが、
小屋も煉瓦もよくわからなーい!

うーん、見る人が見ればわかるのかなぁ。ちょっと残念でした。
瀬花留部というのは瀬留の昔の名前みたいです。何で変えちゃったのかな?

あー、そういえばこの本は大正時代の本なので、『南島雑話』が左源太さんの、
といわれだす前に出ているわけなのですね。で、参考文献に当然あがっている
雑話の注としては「文政十一年大島見聞役等の取調報告書なり」とあります。
そうか、そもそもそう思われていたのかー。

あと、柏有度さんの日記なるものがあった!という(わたしには)衝撃的な記載も
ありました。 まったく残念なことに原本も写本も火事で燃えてしまったらしいのですが、
「沖永良部島の某氏が筆写帰島せし由柏家より聞きたれば或は此の写本沖永良部に
之れ有るべし」とも書いてあるのです。

うわー。沖永良部の方!!!残ってませんか??? 某氏って誰ー!?

あー、有度さんはこのブログではきちんと紹介したことがなかったかもしれませんが、
砂糖黍を絞るための鉄輪車を考案したと言われる人で、『南島雑話』にも出てくるのです。

日記、読みたいよぅ。
biza * 食べ物 * 22:57 * comments(5) * trackbacks(0) * ログピに投稿する
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